
背景左:名鉄神宮前駅 西口木造駅舎 背景中:国鉄を跨ぐ名鉄跨線橋
画面上:名鉄常滑線 高架橋
撮影した線路上:名鉄〜国鉄貨物授受側線 右下に渡り線が見える。

前回からの続き、名鉄神宮前駅の南側にあった秋葉踏切の詳細。
当時は踏切警手が常時滞在、遮断機を手動で操作する第1種手動踏切。
手前に名鉄の踏切小屋、反対側に国鉄の踏切小屋があった。1975.11.11
写真手前から(線路は六本)
<名鉄踏切小屋> 殆ど掘っ建て小屋、横にあるのはトイレか。
2. 同上り
3. 名鉄貨物入換線(国鉄との貨物授受線)
4. 国鉄東海道本線下り
5. 同上り
<国鉄踏切小屋>
6. 国鉄貨物入換線(非電化:主にDD13で入換、国鉄側からの写真)
7. 右上に名鉄常滑線の高架(以下写真)

秋葉踏切全景(奥が神宮前駅)常滑線にパノラマカー(常滑行き特急)
画面左下、国鉄貨物入換線にDD13、踏切左右に国鉄名鉄の踏切小屋。
名鉄〜国鉄渡り線(貨物授受線)も見える。1978.2.18
熱田区内で開かずの踏切化している秋葉、御田、高蔵の各踏切の除却は従来からの懸案事項であったが、国鉄東海道本線、名鉄名古屋本線が並行している秋葉踏切から着手する事で協議が整い、昭和53年度(1978)に事業着手した。
構造は既に名鉄常滑線が踏切部において二階構造で構築されているため、道路を地下化する事になった。工事協定締結に際し、費用の負担割合や施行区分について幾多の難題があったが、昭和55年2月に名古屋市と日本国有鉄道、名古屋鉄道の間で協定が締結され、昭和55年6月に工事に着手。施行区分は線路下は鉄道側、取付道路は名古屋市が行う事となった。昭和59年2月に交差部が完成し歩道部の供用を開始、車道部は昭和60年(1985)3月に供用開始した。
名古屋市 道路事業のあゆみより引用。

青電(グリーン)末期、痛ましい姿の852F(蒲郡行き特急)1975.8.11
右上に国鉄側の踏切小屋(名鉄のそれより立派)踏切警手の姿が見える。
「踏切警手」とは踏切を列車が通過する時に通行者を遮断し、踏切等に異変があった時いち早く乗務員にそれを知らせる職業である(時代によって仕事内容は多少異なる)また一口に踏切警手と言っても、その職名は時代によって変遷しており、明治の鉄道創業当時には「ゲイト番人」と呼ばれ、同じ明治時代の中で「門番」「踏切番」と変化、さらに大正、昭和初期には「踏切看手」「踏切警手」と変更されている。これらの正式職名の他に、女性踏切警手の場合は「旗振女」「踏切おばさん」などの俗称で呼ばれる事もあった。

今日は熱田まつり、右下の赤丸が秋葉踏切(今は秋葉地下道)


開かずの踏切で有名だった神宮前駅北の御田踏切、線路八本 踏切小屋は三つ。
写真はJR側の踏切小屋(遮断桿は半開、停車中の車内から撮影)2008.6.16

「踏切が半分だけ開く、かつて名古屋で見られた踏切警手の職人技」
この記事へのコメント
pogpog
今年ももう熱田まつりか、何時も平日なので随分行ってないな。
gop
只今ライブ配信中>花火大会
https://www.youtube.com/watch?v=Wn29QJCJR-M
pogpog
神宮北の踏切小屋は覚えてるよ、あれは職人技だったのか。
gop
https://www.jcp-aichi.jp/2008/1221/1059.html
今年は巻藁を見に行きたかった、無病息災祈念。
https://www.youtube.com/watch?v=tGH8pdHtG0E