御茶之水

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工事中の御茶ノ水駅:駅の左端に聖橋、上にニコライ堂ドーム屋根(緑青)そして右下、神田川を行く見慣れぬタグボートと艀(はしけ)・・

調べると不燃ゴミを東京港の処分場まで運ぶ「ゴミ運搬船」(動画

JR水道橋駅西口、横を流れる神田川の脇に、白い倉庫風の施設があります。そこに一日一回、大きな艀(はしけ。エンジンを持たない船)が接岸し、施設から延びた巨大なノズル状の機械(コンベア)から艀へと不燃ゴミを載せていきます。ごみを満載にした艀は青色シートが被され、小型タグボートに引かれながら悠々と神田川へと出航です。この船は、都民が排出したプラスチック類などの、いわゆる「不燃ごみ」を東京港沖合のごみ処分場(埋立地)まで運ぶもので、正式名は「不燃ごみの船舶輸送」と呼ばれ、CO2排出が極めて少ない「静脈物流」として注目を集めているのです。

ごみ運搬には「第三〇号」「第三一号」の艀二隻が投入され、千代田区の千代田清掃事務所によれば、船主は中島運輸(本社・東京都江東区)で同社が事業を委託、二隻がローテーションしながら一日一回ごみ運搬を担うようです。なお稼働日は日曜と正月三ヶ日を除く毎月1~28日とのことです。運がよければ、この運搬船が川を下っていく様子がお目にかかれるのです。守備範囲は千代田、文京、台東の3区で、前述した“白い倉庫風の施設”千代田清掃事務所三崎中継所へ、2t積ごみ収集車(パッカー車)がほぼ毎朝ここにやってきます。

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中央線 E233系:グリーン車追加で残り少ない10両¥、下にゴミ運搬船。

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E353系 かいじ35号 甲府行き:線路右方向に水道橋駅。その手前(画面右端)に歌川広重が描いた「東都名所 御茶之水之図神田上水懸樋の跡(水道橋の名前の由来)絵には神田川を使って物資を運ぶ荷船が描かれている。制作年:天保三年~十年(1832-1839)

この「水運によるごみ運搬」はいつから始まったのでしょうか。歴史をひも解くと、実は400年も遡った徳川幕府誕生まで遡れるようです。徳川家康は1603年に江戸幕府を旗揚げしたあと、城防備の「外堀」の構築や、城の眼前に広がる広大な浅瀬の埋め立て(後の日比谷や銀座)に必要な大量の土砂の確保、さらに巨大な都市・江戸の物流を支える「水運」の要(かなめ)の構築という「一石三鳥」を目論みます。その手段として、当時「平川」と呼ばれ飯田橋から日本橋方面に流れていた川の流路を、人工的に東に架け替え隅田川へ流すという土木事業に挑みました。

この難工事に携わったのは、有力な外様大名だった仙台藩の伊達政宗です。徳川幕府への忠誠心を示す意味も込め、台地の「駿河台」を掘って隅田川に通じる人工河川を構築しました。そうして出来上がったのが、現在の神田川です。「江戸」という当時世界最大の巨大都市を支える物流の要(かなめ)は「水運」で、縦横無尽に運河を掘り、随所に荷物の積み下ろしに供する岸壁「河岸(かし)」が造られました(以下サイトから抜粋)


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同じ場所からの夜景:奥に東京タワー、下に中央・中央総武線。

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明治四十年代前期 東京の河岸図

甲武鉄道は1894(明治27)年に新宿~牛込(現・飯田橋付近)間が開業し、1904(明治37)年には御茶ノ水まで延伸します。当時、飯田橋駅付近から隣の水道橋駅付近までの神田川には、船荷の積み下ろしをする河岸が連なっていました。中央線がこの区間で神田川からやや離れたルートをとったのは、川沿いにびっしりと河岸があり、そこを避けて線路を敷設したためです。

飯田橋~水道橋間で中央線は日本橋川という小さな川を渡ります。実はこの日本橋川が、一部川筋の付け替えはあるもののかつての神田川で、ここから東側、御茶ノ水を経て隅田川に注ぐ現在の神田川は、江戸時代第2代将軍秀忠の時に開削されたものです。その目的は、江戸城下を洪水から守るためでした。御茶ノ水駅ホームの眼下には神田川が流れていますが、江戸時代初期はここに川も谷もなく、台地が続く土地でした。ここで丸ノ内線が地上に顔を出すのも、掘り込まれた低い場所だからです(以下サイトから抜粋)

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