昭和十六年「祖父の出張」佐世保 海軍工廠編

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左:祖父のメモ書き、上に「帝国艦   扶桑日向伊勢」下は船体慣性モーメント?

戦時中、祖父は海軍関連への出張が多く、旅程のメモ書きが幾つか残っている。
以下、昭和16年(1941)佐世保出張の列車時刻記録(日付は無いが多分 1〜2月)

東 京 10:30 発 下関行き 夜行 二・三等急行(寝台 和食堂車付き)9列車。
沼 津 00:51 発  EF53を蒸気機関車 C53に付け替え(当時、電化は沼津まで)

濱 松 03:04 着 03:09 発
熱 田 04:53 発
名古屋 05:01 着 05:08 発

岐 阜 05:39 着 05:40 発
大 垣 05:57 発 後部補機 D50連結(10‰下り用別線は昭和19年10月11日開業)
米 原 06:40 着 06:45 発 

京 都 07:58 着
大 阪 08:47 着

神 戸 09:29 着 
岡 山 11:48 着 山陽本線経由。 

廣 島 14:52 着 瀬野〜八本松、後部補機 D51連結。
下 関 18:50 着 九州に渡る関門連絡船、大陸に渡る関釜連絡船に接続。
        (関門鉄道トンネル下り線は翌年の昭和17年7月1日開通) 

下関着後、関門連絡線で門司に渡り宿泊。旅館名、食事場所などの記載は無し。

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現在の門司港駅(旧 門司駅)大正三年(1914)築

中:みかど食堂 駅舎二階にあったフランス料理店。開設当初の店内を再現し 2019年再開店したが、 残念ながら2023年1月30日閉店。下右:連絡船乗り場と駅構内を結ぶ 地下通路跡が今も残る。
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翌朝、門司始発、佐世保行きの普通列車に乗車(メモに門司 07:50の記載あり)

門 司 07:50 発 佐世保行き普通 多分 C51牽引。
小 倉 08:08 発 
戸 畑 08:17 発 
折 尾 08:40 発  

鳥 栖 10:15 着 10:25 発 長崎線に入る。
佐 賀 11:06 発 

肥前山口11:37 発 佐世保線に入る。 
早 岐 12:50 着 13:00 発 スイッチバック。 

佐世保 13:17 着 まだ陽が高い、仕事が出来る時間に佐世保着^^

連絡先:佐世保市湊町某社。
宿泊先:佐世保市松浦町 中村旅館 (検索しても出て来ず)

急行券+乗車券:10円10銭(寝台を利用しなかったのか、意外と安い)

艦内弁当:3円60銭(たぶん複数回利用した合計金額、以下同)弁当:2円85銭、パン+コーヒー:80銭、菓子:2円30銭、東京豆:50銭、ソリ:15銭、靴下:50銭、煙草:10円、酒ツマミ:3円70銭(酒代は不明)、活働(映画?):40銭、宿泊費:58円80銭、その他:24円60銭 借用ス^^

以上、1000〜1500倍すれば大体現在の金額に近くなる由(100銭=1円)

呉工廠編のメモにも書かれていた「艦内弁当」(コメント欄に補足あり)

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で、メモにある戦艦「 扶桑日向伊勢」は 1940〜41年、第一艦隊 第二戦隊に編入、第二艦隊と共に連合艦隊を編制。ただ祖父出張中の1941年1〜2月、佐世保工廠に入渠中なのは「伊勢」のみ。(因みに同年12月8日真珠湾攻撃の際、伊勢は奇襲攻撃を担当した南雲機動部隊の損傷艦をサポートするため日本近海に出撃。しかし南雲機動部隊の損傷はゼロ、伊勢も無傷で瀬戸内海へ帰還する)

他、1941年1〜2月には重巡洋艦古鷹加古 駆逐艦叢雲白雲東雲」が佐世保工廠入渠中、艦内弁当を食べているので乗船はしている筈だが、メモに艦名の記載は無い。慣性モーメント図?も何のことやら意味不明・・残念ながら爺さん佐世保工廠出張の調査はここまで。

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と一旦諦めたが、祖父が撮影した「或る隧道」の場所探しは継続、次回へと続く。

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少し前の佐賀〜長崎。

鳥栖(230形 268)〜早岐(特急 783系)〜佐世保(シーサイドライナー キハ66系

この記事へのコメント

  • pogpog

    流石に連合艦隊御膳は士官用では。兵隊と同じ食事が折詰されているとか。それでも充分旨いと思うが。海軍めしマンガ「艦隊のシェフ」参考まで。
    https://news.kodansha.co.jp/9168
    2024年08月13日 10:32
  • pogpog

    図は旋回時のモーメントか(転覆防止)上に書かれている文字は自計(自動計測?)船に詳しい人なら判るのでは。ところで祖父君は当時お幾つ?
    2024年08月14日 11:31
  • pogpog

    長距離列車の混雑は年々悪化。働き盛りとは言え長崎まで1日半は辛かろう。週刊グラフ雑誌「写真週報」にみる昭和の世相、昭和17年の鉄道事情「鉄道は勝つための武器、不急の旅行で戦力減らすな」だそうだ。
    https://www.jacar.go.jp/shuhou/topics/topics03_04.html
    2024年08月16日 02:01
  • gop

    先日鑑賞した1958年、野村芳太郎監督「張込み」横浜から佐賀まで列車で移動。ロケは東京 20:30発 博多行急行「筑紫」終点博多に翌 19:45着。
    http://tetueizuki.blog.fc2.com/blog-entry-317.html
    関門トンネル開通後でもほぼ一日、17年後でも大変さは大して変わらない。
    2024年08月16日 10:07
  • Cedar

    私が昭和45年に初めて九州に行った時は、午前11時半ごろ東京発の「西鹿児島行き急行「桜島・高千穂」で、朝6時過ぎに折尾着だった記憶があります。「張り込み」時代より少し速くなってるかな?
    2024年08月16日 18:09
  • gop

    > Cedarさん
    「桜島・高千穂」懐かしいですね、最後少しだけ乗りました。
    https://987.blog.ss-blog.jp/2022-02-19
    東京から門司まで18時間10分、西鹿児島まで「桜島」24時間51分「高千穂」28時間11分、流石に全線乗車は厳しそうですね。
    九州行きは普通に新幹線(〜岡山)かブルトレでした。
    2024年08月16日 21:22
  • gop

    > 以下 Capitanoさんからご指摘。呉同様、佐世保にもあったと思われる。

    艦内弁当というのは、海軍工廠の工員に対して支給された工員弁当で、まず間違いありません。瀬間喬「日本海軍食生活史話」に詳しく。
    https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=173363009

    太平洋戦争突入前、昭和16年(1941)頃の呉海軍工廠では、約7万3000人にのぼる工員が働いていました。その工員たちの昼食には、自宅から持参する弁当などのほかに購買所(のち物資部)弁当部勤務の年配女性たちがつくる数万食分もの工員弁当がありました。当時の弁当箱はアルマイト製の飯箱(大)と惣菜箱(小)の2個セットでした。
    https://sh-web.jp/author/plzo74bdajflcw/page/26
    2024年08月31日 09:25
  • ナツパパ

    すごい時間がかかったんですねえ、下関までほぼ2日間。
    2022年に門司港駅行ったとき、三笠食堂お休み中で
    ガッカリしましたっけ。
    2024年09月05日 10:18