昭和十六年「祖父の出張」呉 海軍工廠編

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日本統制地圖株式會社刊「鐵道旅行圖 改訂新版」昭和17年1月13日 九版 二十銭
上左:祖父が撮影した「或る隧道は呉線?

戦時中、祖父は海軍関連への出張が多く、幾つか旅程のメモ書きが残っている。以下、開戦三ヶ月前の昭和16年(1941)9月11日(木)に出発した呉出張の列車時刻記録。

東 京 13:36 発 大阪行き 二・三等急行 1027列車 <戦時戦後参照  EF53牽引。
沼 津 15:49 発 電気機関車 EF53を蒸気 C53に付け替え(電化は沼津まで)
濱 松 17:53 着 17:58 発

熱 田 19:31 発
名古屋 19:38 着 19:44 発

岐 阜 20:13 着 20:14 発
大 垣 20:30 発 大雨、後部補機 D50連結(別線は昭和19年10月11日開業)
米 原 21:02 着 21:12 発 雨は止んで星空。

京 都 22:11 着 京都始発 下関行き 101列車に乗り換え(乗り換え時間、9分)
__________________________________________________________________

京 都 22:20 発 呉線経由 下関行き 普通寝台 101列車(和食堂車付)C53牽引。
大 阪 23:00 着 23:07 発

三 宮 23:35 着  
神 戸 23:40 着 

岡 山 02:49 発 日付変わり 9月12日(金)
糸 崎 04:44 着 04:50 発 糸崎機関区、三原から呉線に入る。

 呉  06:31 着 仕事には理想的な早朝着(廣島 07:26 着 〜 下関 13:35 着)

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急行券+乗車券:12円(たぶん寝台料金含む)当時は未だ特急「富士」運行中だが、運賃節約のため急行〜京都乗り換え呉線経由の101列車を選択したと思われる。

宿泊先:呉市 櫎菊旅館(検索しても出て来ず)
出張先:呉市中通り某社。

家族宛て手紙の下書き「父さんは益々元気、乗っている船は巡洋艦 衣笠であります。今日は日曜で定時で帰り、兵隊と遊びに出てお酒を飲み・・云々(酔って書いたのか判読不能)」

どうも、この艦の中で仕事をしていた様。

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祖父が買ったハガキ「我が海軍の精鋭」の中の一枚、巡洋艦「衣笠」

以下、昭和16年(1941)衣笠艦歴。日付は整合(祖父呉滞在 9月12日〜24日?)

3月1日   第一艦隊 第六戦隊に編入。
9月13日 呉海軍工廠に入渠。
9月18日 呉工廠を出渠。

10月7日 呉発。室積(山口県光市)沖に回航。
翌年11月14日 第三次ソロモン海戦で米空母エンタープライズ艦載機攻撃で沈没。

その他メモ。

艦内弁当:5円(恐らく複数回食べた合計金額。以下コメント欄に補足詳細あり)
煙草:4円、靴下:1円、宮島参拝:5円、酒代:?(タイトルのみで金額未記入)
宿泊費:94円80銭(9月24日までとして一泊 7円3銭)

帰りの列車時刻は全く書かれていない・・疑惑の隧道も詳細分からず。
(昭和16年の貨幣価値:1000〜1500倍すれば大体現在の金額になるらしい)

因みに祖父出張中の昭和16年9月、呉海軍工廠には竣工直前の「大和」も入渠中。

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9月20日   呉工廠で最終艤装中の大和(上:有名な写真)

10月20日 豊後水道 宿毛湾沖を公試航行中の大和(12月16日 竣工)

 9月20日写真、左奥に並ぶ古鷹・青葉型 巡洋艦。その中の一隻が「衣笠」らしい。
と言う事は、爺さんは竣工前の「大和」を見た?

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呉線呉駅〜大和ミュージアム海軍食堂呉駅(103系)〜広島駅EF67 2

この記事へのコメント

  • Cedar

    貴重な記録ですね。軍事関係のお仕事されていた方ならではの秘密のベールを覗き込むような内容です。ありがとうございました。
    2024年08月07日 06:17
  • gop

    > Cedarさん
    早速のコメント有難うございます、恐縮です。
    戦時中祖父は軍需関連企業に勤めていたのですが、仕事の話を聞いた記憶は全く無く、今思えばあまり話したくなかったのかもしれません。会社社屋は20年の空襲で全壊(死者多数)戦後は別の会社に転職しました。

    メモは昔から気になってはいたのですが、お盆休みを機に調べてみました。しかしネットは便利ですね、あっと言う間にここまで真相解明しました^^ 終戦記念日にもう一つ出張旅行記アップしてみます。
    2024年08月07日 08:46
  • pogpog

    祖父君もマメな方とお見受けした。隔世遺伝か。
    先日のNHK Eテレ「戦艦大和 封印された写真」この様な証言を当事者や、その家族から直接聴く事が出来るのも今が最後だろう。
    https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0061019
    2024年08月07日 12:25
  • gop

    > 隔世遺伝
    酒と写真は引き継いだかも知れない、頑固な爺さんだった。
    空爆された会社敷地跡に母校が建ったのも不思議な縁(この空襲で菩提寺も全焼している)Eテレ視聴、この様な写真がまだ沢山眠っているのでは。
    2024年08月07日 17:10
  • のり

    お話をされなかったのはトップシークレットだったのでしょうね。
    父の出征先は中支方面でした。私の父も戦争の話はあまりしたがりませんでしたが、移動中についさっきまで居た場所に着弾し、馬が砕け散ったという話を聞いたことがあります。
    そんな父も他界してもう30年以上が経ちます。
    2024年08月08日 08:27
  • gop

    > のりさん
    仕事とは言え、戦争に加担した事に納得出来なかったのかも知れませんが。会社で何をやっていたのか、親からも聞いた事はありません。ただ良く出張していたとだけ。来年は終戦八十年ですね。
    2024年08月08日 16:42
  • pogpog

    学校のサイトにも書いてあった。こんな広い敷地だったのか。
    しかしこのクソ暑い最中に東南海が来たら一体どうなるのだ。
    2024年08月09日 01:34
  • gop

    学校の敷地は機体部、特精(特需精密機器?)があった所らしい。
    戦時中発生した東南海地震(1944.12.7、M7.9)母は学校に居て校庭に避難したが、廊下や階段が波の様に揺れていたそう。その約1ヶ月後には三河地震(1945.1.13、M6.8)39度に地震は勘弁して欲しいな。
    2024年08月09日 08:47
  • gop

    例のNHK大和番組、撮影した塩谷恭三氏はライカを使用されていたとの事。どんな方だったのか検索しても出て来ない。以下サイト、昭和10年ライカIIIの価格 790〜870円、1500倍としても凄い。
    http://nikonfan.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/a-c164.html
    2024年08月13日 17:04
  • しゅう

    この時代の鉄道ダイヤは初めて見ました。13時台東京発というダイヤの組み方がすごいです。当然、旧型客車のボックスシートだと思いますが、今と違い非冷房で扉も開けっ放しで運転(昔の山陰・福知山線の旧客列車のイメージで書いています)という危険な列車ですね。しかもこれで夜行ですから、大垣夜行を経験した世代でもびっくりです。
    2024年08月14日 11:44
  • gop

    > しゅうさん
    特急に乗れない一般人(節約したい人)向けのスジなのでしょうね。
    京都で寝台乗り換え(何と普通列車)呉に翌朝着は意外と便利だったと思われますが、この年末から戦争が始まって列車本数は削減され、長距離移動は大変な時代に入っていきます。
    2024年08月14日 16:25
  • gop

    > 以下 Capitanoさんからのご指摘、詳しく有難うございました。
    艦内弁当というのは、海軍工廠の工員に対して支給された工員弁当で、まず間違いありません。瀬間喬「日本海軍食生活史話」に詳しく。
    https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=173363009

    太平洋戦争突入前、昭和16年(1941)頃の呉海軍工廠では、約7万3000人にのぼる工員が働いていました。その工員たちの昼食には、自宅から持参する弁当などのほかに購買所(のち物資部)弁当部勤務の年配女性たちがつくる数万食分もの工員弁当がありました。当時の弁当箱はアルマイト製の飯箱(大)と惣菜箱(小)の2個セットでした。
    https://sh-web.jp/author/plzo74bdajflcw/page/26
    2024年08月31日 08:34
  • gop

    > 工員弁当補足
    日本海軍食生活史話著者の瀬間さんは「工員弁当は廉価で、はっきり覚えていないが 10銭程度」と書かれている。祖父のメモには 5円とあり、1日一食として35銭、二食として18銭(出張 約二週間)昭和16年饂飩 蕎麦が15銭ほどらしく、弁当箱大小各10銭、計20銭だったのかも知れない。
    2024年09月01日 11:48
  • ナツパパ

    この時期にはまだまだ鉄道が時刻表どおりに運行されていたのですね。
    こういう列車に乗って食堂車で、と夢想しますが、狭い座席で長時間は
    きっと身体がボロボロになってしまうでしょう。
    2024年09月05日 10:23
  • やすなが遼一

    初めまして、三十糎艦船連合呉支部の管理人やすながと申します。 弊サイトのデータが、お役に立てているようで、うれしく思います。
    さて、ご祖父様の宿泊先ですが 櫎菊旅館となっていますが、「廣」菊旅館ではないでしょうか。この旅館であれば境川通三丁目(現・中通二丁目)に存在していましたので、出張先の中通某社にも近く便利であったと考えます。
    何かありましたら、サイト各ページ右下の「メール」から連絡ください。
    2024年09月06日 16:47
  • gop

    > やすなが遼一様
    初めまして、今回はお世話になりました。こちらこそご挨拶無しに御サイトを引用し申し訳ありません。

    ご指摘頂いた「櫎」祖父のメモには木偏(木+廣)で書かれておりますが、読み方は同じコウの様で、廣菊旅館なのかも知れませんね。こちらも検索しても出てこない様なので、既に廃業されているのでしょうか。ちなみに出張先(連絡先)は中通り三丁目 大倉商事(株)となっています(財閥系の?)

    祖父が残したものは他にも幾つかあり、またご厄介になる事もあるかと思います。今後とも宜しくお願い致します。
    2024年09月07日 11:57
  • gop

    2024年09月20日 06:57