臨 9336レ「SL 海水浴の旅」奈良YMCA会員号
拓殖〜加太 1973年7月15日(日曜日)湊町 8:40 → 天王寺 8:49 → 王子 9:13 → 奈良 9:41 → 柘植 11:13 →(加太 11:25) → 亀山 11:38 SL末期の関西線(残り二ヶ月半)休日には臨時列車も走り大賑わい。
五十年前の「加太越え」
D51 831牽引 荷物列車 加太の大築堤にて
所謂「
加太越え」で、この先
中在家信号場は25パーミルの上り勾配のため、スイッチバックとなっていた(2019年 廃止)
四百四十一年前の「加太越え」
天正十年六月二日(1582)
本能寺の変当日、家康は家臣数名と大阪堺に投宿中。報を受け、世に言う「
神君伊賀越え」を敢行、命からがら二泊三日の強行軍で三河まで帰還する。その道中、関西線沿い
柘植〜
加太〜
関〜
亀山の「加太越え」ルートは、ほぼ確定しているが、
堺〜拓殖の山岳ルート、及び
白子〜
大浜の海上ルートには諸説あり、「どうする家康」では
常滑〜
知多半島を横断せず、海上を迂回し大浜(現 碧南市)に上陸するルートを選択・・
神君伊賀越えは「大和越え」だった?(上図拝借)
どうする家康「我々スタッフ、伊賀を越えてみました!」
どうする家康「常滑飛ばし」に地元市民は落胆の声・・
車庫内 C58 66 / 給炭を終え転車台を渡る D51 885
この記事へのコメント
ナツパパ
その時、加太の築堤まで行けば迫力のある写真撮れたかもしれないのになあ、後悔先に立たずですね。
pogpog
「どうする家康」は史実を無視するドラマです、半田郷土史研究会。
https://handakk.com/blog/%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%81%E4%BC%8A%E8%B3%80%E8%B6%8A%E3%81%88%E3%81%AE%E5%BE%8C%E3%81%AE%E8%
gop
加太越え、壬申の乱(672)では大海人皇子が、木曽義仲討伐(1184)では源義経が峠越えをしています。大築堤は以下地図 7番(大和街道架道橋)加太駅から約3.5kmありました。結構歩きます^^
http://kameyama-kanko.com/wp-content/uploads/2017/03/f5192f4c3af44ea15716059f6bcaa94b.pdf
gop
東龍寺も常楽寺も於大の方と縁があり、普通に考えれば上陸ルートが妥当。
ただリアルタイムで書かれた文献や物的証拠が現存していないのでは。常楽寺のHPにも伊賀越えの帰りに寄ったとは書いてない。
https://www.tsunagaru-map.com/chita/map.html?point=2859
pogpog
・白子〜三河ルートは 11通りの説があり、うち知多とばしは 3通り。
・航海関係者の試算では、白子〜直接三河大浜は船で 7〜9時間。
対して白子〜常滑は船で 1時間、上陸し半田常楽寺まで徒歩で 2時間、半田〜三河大浜は船で 20分、合計 3時間20分。東龍寺と常楽寺で其々1時間半休憩したとして 6時間20分、所要時間だけで見れば微妙か。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid022pcTMtcaUFwwnUQeY5ip7tvyvPAbFTQHPG5tUBwCYfZn6zBu9EMhA2rcMqYAY1f8l&id=100064871103090
gop
西まさる氏の「知多とばし総括」を見てみたい。
しゅう
私はキハ58+65の時代に撮りに行きました。その時もスイッチバックは残っており撮影が楽しめました。いまは軽快気動車の単行でそっけない路線ですが、うまく営業すれば集客できる路線なのにとは思います。
gop
かつては栄光の関西線。蒸気機関車運行も残り二ヶ月余り、ここも数十名の撮り鉄さんが三脚を並べていました。
あの喧騒は何処へやら、今や急行も無くなり普通列車が一時間に一本。それ以外は殆ど変わらず、良くも悪くも偉大なる時代を偲ばせる貴重な区間、機会があったら又乗ってみたいです。