
1972年(昭和四十七年)4月撮影(二枚を合成)Konica C35 Hexanon 38mm F2.8
堀田駅ビル屋上から
右にパノラマカー(岐阜行き特急)が走る現在の名鉄名古屋本線。中央の奥まで続く道が 1917年(大正六年)開通した愛知電気鉄道 有松線の線路跡、奥左側ビルの先に井戸田駅があった(廃駅)1930年(昭和五年)現在の名古屋本線とほぼ同じ線形に改良、1969年高架化。現在はマンションが立ち並び風景は一変したが、線路跡はほぼそのまま生活道路として残っている。
愛知電氣鐵道(株)は公共交通の便に恵まれなかった知多半島西岸地域と名古屋市を結ぶ鉄道路線を敷設運営する目的で 1910年(明治四十三年)設立。1913年(大正二年)2月、熱田(神宮前)から有松・知立方面へ至る有松線敷設免許を申請、1915年(大正四年)11月着工、1917年(大正六年)3月 神宮前〜笠寺(現 本笠寺)間、同年5月 笠寺〜有松裏(現 有松)間の 9.7km全線が開通した。その後、豊橋線として1927年(昭和二年)6月、神宮前〜 吉田(現 豊橋)間 62.2 kmが全通。

愛知電気鉄道 有松線路線図(1920年)赤丸が撮影場所だが堀田駅は未だ存在しない。線路は現在の惣作町を経て、青丸 移動前の井戸田駅(1917年3月 開設)付近で急カーブ。井戸田村横の畑を通り黒丸の南井戸田駅(1917年3月 開設 1923年6月 廃止)に至る。当初は人口が多い井戸田村に二駅を開設したと思われる。堀田駅開設は工場誘致が進み、市電が開通した1928年4月(場所は赤丸の上)

現名古屋本線路線図(旧図と同範囲)赤丸が撮影場所(堀田駅ビル屋上)矢印が撮影方向(東方面)青丸が井戸田駅(1917年3月 開設 1930年7月 高速化を目的に複線化 線形改良してこの場所へ移動 1944年9月 休止 1969年4月 高架化により廃止)上の黒丸が移動前の井戸田駅、下の黒丸が南井戸田駅のあった場所、単線時代の線路跡はほぼ同じルートで道路として残っている(点線部)

旧路線(井戸田駅〜南井戸田駅)廃線跡現況
上左:左奥が旧井戸田駅、大通りを渡り 上中右:井戸田村沿いを走る。
下左:井戸田村から 下右:南井戸田駅に至る廃線跡(現路線に合流)
愛知電氣鐵道>名古屋鉄道(神宮前〜南井戸田)+捕虜が居た街(城山三郎)系譜
1910年(明治四十三年)11月21日:会社創立総会開催、社名を愛知電氣鐡道とする。
1913年(大正二年)2月18日:南区熱田東町より、知多郡有松町へ至る有松線の免許取得。
1917年(大正六年)3月7日 :有松線 神宮前〜笠寺間 4.1km開通。井戸田駅開設。
5月8日 :有松線 笠寺〜有松裏開通、神宮前〜有松裏間 9.6 km開通。
1923年(大正十二年)4月1日 :岡崎線(旧有松線)神宮前〜東岡崎間 32.5km開通。
1925年(大正十四年)6月15日:岡崎線 神宮前〜東岡崎間を直流 600Vから同1500V昇圧。
1927年(昭和二年)2月24日:南区熱田東町から同区金山へ至る鉄道路線の免許取得。
4月17日:都市化が進み、名古屋市電が堀田まで開通、都心と接続。
6月1日 :豊橋線神宮前〜吉田間 62.4km開通、特急運転。
1928年(昭和三年)4月15日:名古屋市電 東郊線との乗換え駅として堀田駅を開業。
(当時の最優等列車の特急を含む全列車が堀田駅に停車)
(当時の最優等列車の特急を含む全列車が堀田駅に停車)
1930年(昭和五年)7月11日:堀田〜呼続複線化 井戸田駅付近 急カーブを線形改良。
井戸田駅 南南東約300mへ移転、堀田駅を現在置移転。
9月20日:複線化完成ダイヤ改正 超特急あさひ運行開始(堀田停車)
1934年(昭和九年)10月:名岐鉄道(後の西部線)との間で合併に関する内交渉開始。
1935年(昭和十年) 8月1日:名岐鉄道と合併、現名古屋鉄道(東部線)となる。
1937年(昭和十二年)12月 :東部線用、流線型 3400系運行開始。
西部線用には同じく流線型の850系。
1943年(昭和十八年)12月28日:日本車輌 有松寮敷地内に捕虜収容所を設立。
毎日 捕虜(アメリカ イギリス カナダ人)は
専用電車で日車名古屋工場(熱田)車両製造に従事。
1944年(昭和十九年)9月1日:東西連絡線(新名古屋〜神宮前)開通。
名岐鉄道(西部線)愛知電気鉄道(東部線)金山で接続。
井戸田駅休止。1948年 東西直通運転開始。
1945年(昭和二十年)9月5日 :終戦。有松 捕虜収容所閉鎖、終戦時の捕虜人数は273人。
静岡の新居町へ移送、健康調査後、船で各国に帰国。
1961年(昭和三十六年)6月1日 :7000系 パノラマカー運行開始。
7月15日:小説中央公論 夏季号城山三郎「捕虜の居た街」掲載。
1969年(昭和四十四年)2月23日:堀田駅 高架化完成。4月5日 井戸田駅 廃止。
1972年(昭和四十七年)2月29日:堀田駅 10階建て駅ビル完成。
2022年(令和四年)3月31日:堀田駅ビル商店街、建て替えのため全店閉店。
8月20日:一階の食品スーパー パレマルシェ閉店。
(1973年6月 名鉄ショッピングセンターとして開店)
有松線が走っていた線路跡の今。この道の真ん中を走っていたのは 1917年(大正六年)3月から、1930年(昭和五年)7月までの約十三年間(単線)残念ながら当時の写真は探しても見つからない。
昭和初期の有松駅(名古屋市博物館)
https://www.museum.city.nagoya.jp/collection/memories/album/contents_01/index.html
この記事へのコメント
pogpog
gop
1917年(大正六)開業時走っていたのは電1形(オープンデッキ四輪単車、ポール集電)+付1形(付随車)以下、開業日有松裏駅での写真。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b7/MT-Arimatsuura_Station_1917.JPG
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93%E9%9B%BB1%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A
1921年(大正十)からは電3形(二軸ボギー車、 1926年以降パンタグラフ化)以下「神宮前と愛電本社」に写真(有松行き単行)惣作町の併用軌道?写真があれば見てみたい。
http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/meitetsu/shiryokan/H25-2-tokonamesen-100nen.pdf
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93%E9%9B%BB3%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A
gop
http://nagoyarail-acv.or.jp/nra/NRAnews05.pdf
https://nagoyarail-acv.securesite.jp/contents/news/NRAnews21.pdf
こんな小説も。城山三郎「捕虜の居た駅」
https://nfu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=3236&file_id=22&file_no=1
pogpog
https://www.futabakan.jp/event/270208%20shiroyama%20ura.pdf
収容所捕虜の診察医の話、棚橋家住宅は行ったことがある。何とも・・
http://www.asahi.com/area/aichi/articles/MTW20160624241350001.html
gop
https://twitter.com/MARUZENNAGOYA/status/901699673873817600
okuruma1970
道路伝いに近い軌道の線形では、高速化は難しいですね。
ところで、今昔マップを初めて知りましたが、便利なものがあるのですね。
近所を調べて、この道路が線路跡だったのか、と楽しませてもらいました。
gop
名古屋は狭いですからね。東京大阪の様な表立った市内交通市営主義(市営モンロー主義)は無かったと思いますが、市営への買収統合は積極的に行っていた様です。https://100th.kotsu.city.nagoya.jp/history/detail/3/
土着民優先の「名古屋モンロー主義」と言う言葉は今もあるらしいですが(笑)今昔マップ時々使わせて頂いてます。
gop
「巨大な火だるまの様な真っ赤な電車が、轟音とともにすれちがって行った。豊橋・岐阜間を高速で結ぶ名鉄本線の特急電車である。二階づくりになった最後部の展望車のひろい窓が、明るい光をきらめかせながら、みるみる遠ざかって行く。ぼくの乗っている下り名古屋行き準急電車は、ブレーキをきしませ、ゆっくり有松駅に滑りこむところであった・・」
掲載されたのは、小説中央公論「1961年(昭和三十六年)夏季号」
初夏、パノラマカーが快走する情景が冒頭に書かれているが、パノラマカー運行開始は1961年6月1日、 中央公論 夏季号発売は1961年7月15日。なので、書かれたのは恐らく運行開始前。作者 城山三郎氏は大戦中の捕虜収容所と最新の電車(共に日本車輌、但し文中には未記載)を判っていて、敢えて対比させたのだろうか。興味は尽きない・・
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=297851058
(注)城山三郎氏は1927年8月名古屋生まれ、1957年12月まで名古屋在住、1963年6月まで愛知学芸大学専任講師(Wikipedia)愛知学芸大学は現在の愛教大、刈谷なので名古屋>有松>知立と名鉄で通っていた筈。
pogpog
https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/authors/a33/
それと1997年新春インタビューで戦中戦後の名鉄について話している。少なからず関心はあった筈。以下「トップ」の項。
https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20221227/se1/00m/020/007000d
Cedar
捕虜専用電車は通常形なんですね。
gop
土川元夫さんは1928年旧名鉄入社、1961年取締役社長。パノラマカー構想を具体化させた、名鉄中興の祖として有名な方。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B7%9D%E5%85%83%E5%A4%AB
恐らくお二人は当時から面識があって「捕虜が居た駅」はある意味、新型車パノラマカーの全国向け宣伝・告知だった?
gop
捕虜送迎車は毎日同じ車両が使われていた様ですね(愛電6形 1073?)当時日車熱田ではD52と貨車(トキ900)を製造中と白井昭さんの回想録にはありますが。彼らは何を作らされていたのでしょう?
pogpog
https://meigennavi.net/kw/a/atama-kirikaeru.htm
母上は収容所をご存知無かった?
gop
聞いてみたが、収容所の事も有松に寮があった事も全く知らなかった。
ナツパパ
有松というと宿場町だったり、絞り染めの産地だったりで、
鉄道を通す意味があったのでしょうね。
gop
良くご存知ですね、桶狭間もすぐ近くです。
岡崎豊橋方面への鉄道は地元要望も多く、当初から路線延長を視野に入れた計画だった様です。先ずは取り合えず有松まで。
pogpog
アマチンが亡くなった・・
https://www.chunichi.co.jp/article/802641
gop